4/14 岡田斗司夫「遺言」第五章に参加

オタキング岡田氏が語る「遺言」第五章を聞いてきた。
実況そのものはあちこちのブログ等でレポートされているので、ここで繰り返すこともあるまい(メモも取っていないし)。

その中で、あまり他の人が書いていないことをいくつか。

1)今の芸人の芸風について
今のお笑い芸人は、「いじめっこ」「いじめられっこ」では明らかにいじめっ子のカテゴリーに入る。
彼らの芸は、「面白いだろ!」「面白いと思うよな、お前も」というような価値観の強制を強いる芸だからだ。
感性が同じであればいいが、それ以外の人は基本的に排除する感じになってしまう。
だが、これは黒柳徹子には通じない。 なぜなら、彼女は自分のオーディエンスである50代以上の女性の存在を意識しているから。

なるほど。
もちろん、「同時代性」が重要なのはいつの時代でもあって、いまの若い人がやすし・きよしを見ても面白いと思うかどうかはわからない。 この辺は小林信彦氏のカテゴリーになるだろうが、やすきよは天才。また、爆笑問題も天才。そう思ってもいいのかもしれない。
彼らは間を読むのがうまいがそれだけではなく、全員にではなくても、かなりのオーディエンスにとって、普遍的な面白さをある程度は備えていると思うのだ。

感性や価値観の強要を強いない芸。今の時代では簡単ではないのだろう。

エンタの神様で出てくる芸人で、会場は笑っているが、自分は面白さがまったくわからない(というか白けきっている)ようなケースは多々ある。 自分の感性が合わないのだから仕方ない。 感性、価値観が強制されても共感できないために排除されてしまう存在なのかもしれない。 ただ、実は会場のオーディエンスもサクラ的に笑う、「笑いおばさん若年版」かもしれないのだ。テレビという場を通じて、お笑い芸人と観客の間で共犯関係を作り出すということだろう。

先日お笑いライブに行ったもと同僚が、エンタに出ていた芸人が芸をやっても寒い風が吹き荒れていた、ということを言っていた。
観客もそこまで強要につきあわされる義理はないのだ。 


2)表現の自由とメディア規制
Q&Aで出た話だ。
いわゆる有害なメディア(ソフトでもアニメでも)に対しての規制が必要かどうか?
岡田氏は、規制すべきだという立場だ、と理解した。少なくとも野放しにすべきではない、という立場だといえるだろう。
たとえば20年前(10年前か?)だったら、規制することによる利益としないことによる不利益を比べて不利益のほうが大きかった。だから表現の自由を標榜してその保護に回るムーブメントが正当化されただろう。
しかし今は、表現の自由はいろいろな形ですでに実現している。その状況のもと、作り出したものが社会に対して悪影響を及ぼす可能性があるものを創作、あるいは発表することに制限をつけることは今となっては必要かもしれない。

私もそう思う。(岡田氏の議論を曲解しているかもしれないが。)

表現の自由は確かに守られるべきだ。
だが、自由には責任がついて回るということを忘れてはならない。
たとえば、いわゆる社会的に有害とみられるようなモノを作り出したとして、それによって惹起された結果について、ある程度責任をとる覚悟をもっているのだろうか?

ひとつだけ例をあげよう。幼児ポルノに関連するもの。
これはもう、無条件に規制すべきだと思う。

幼児性愛者は世界中にいる。アメリカでは幼児性愛者の名前と住所を公表する。普遍的な悪だからだ。
私もそれは正しいことだと思う。 Megan's Law というのがある。メガンという女の子が、幼児性愛者に殺されたことからできた法律だ。幼児性愛者については名前、住所に写真も公表するのだ。

日本なら人権侵害と騒ぐやからも多いだろう。だが、それよりも事件を防ぐことのほうが大事だ。

たとえば海洋堂で作成した「わたしのおにいちゃん」というフィギュア&本がある。 幼児性愛者が喜ぶだけのものだ。
あるいは幼児ポルノ。
そういうものを作ることが、潜在的な犯罪者を増やす可能性がある、ということを制作サイドが考えているとはとても思えない。

表現の自由がある。それをどうとらえるかは受け手の問題だ。そう言うのはたやすい。

だが、その創作者たちは、本当にそれに自信をもっているのだろうか。幼い子供を持つ親として、そういう商品を胸を張って社会に出していられるだろうか? 自分の家族に堂々と見せて誇ることができるのだろうか?

大人のポルノは別だ。それは出す側も受ける側も自己責任だと思う。大人はある程度は自分の身を守ることもできるから。

だが、子供は違う。力も知識も大人にはかなわない部分が多い。そういう「弱者」を危険にさらす可能性があるようなプロダクトに関しては、方式はさておき、基本的にはやはり規制すべきであろう。